尹晶煥の鮮々トークその1”信頼を植え付けてくれたヴィショベッツ監督”
尹晶煥が自身の大切な記憶をファンに紹介する、新聞の特集記事です。数回にわたって掲載されているので、少しずつ紹介していきます。
今年に入り、20年あまりの選手生活を終えた。選手生活を振り返ってみると、多くのことがあり、多くの監督、チームメートに出会った。その中で、今の自分がこうしていられるようにしてくれた二人についてから話を始めようと思う。
現在の自分があるのは、1995年油公(現在の済州)に入団したおかげだ。東亜大に通っていた頃、当時縁故指名で油公に入団することがすでに決まっていた。その時期、アニトーリ・ヴィショベッツ、バレリー・ニポムニシという二人のロシア人監督に出会った。多くの監督の中で特にこの二人が記憶に残っているのは、なんにしても、自分を中心にした戦術を用いてくれたためだったと思う。この二人の監督とは気持ちよくサッカーをしていたという記憶が残っている。
二人のうち、まず最初に出会ったのがヴィショベッツ監督だ。プロに行く前、オリンピック代表に呼んでくれたのだが、1994年後半、馬山でロシアオリンピック代表とテストマッチを行った時だった。オリンピック代表始動後の最初の試合で、ロシアとの2試合、2試合目に出場する予定だった。ところが、1試合目に出る予定だった金載ヨンのコンディションがよくなかったため、変わりに自分が出場した。そして、2アシストして3-0で試合に勝利。おかげでその後続けて試合に出られるようになった。今思えば、金載ヨン(引退)には有難い気持ちだ。これが運命を変えたのかもしれないから。
事実、当時オリンピック代表チームは趙真浩(現済州コーチ)を中心にチームを作っていた。しかし、監督は自分を気に入ってくれたようだった。セットプレーはすべて自分が担当した。1996年アトランタ五輪のガーナとの初戦、もらったペナルティキックも、監督が自分を見てベンチから指示をだした。崔龍洙もいたし、OAで出場していた黄善洪もいたが、監督は自分を信頼してくれていたようだ。おかげでキャプテンマークも付けることになった。元々キャプテンは崔龍洙だったが、96年に自分に変わった。その時以外、キャプテンマークを巻いたことはないと思う。
しかし、監督とけんかしたこともある。たった1回だが、選手の中で自分だけだった。当時監督の通訳がロシア人だったのだが、韓国語がへたくそだった。だからお互い意思の疎通がうまくいかず、意見の衝突が起こった。だからといって監督にほされたりということはなかった。国内の監督と外国人監督の差だということもできる。
ヴィショベッツ監督とはいい思い出だけが残っているが、オリンピック終了後、監督がすぐロシアに帰ってしまったことは残念だった。ベスト8進出はならなかったが、当時韓国は1勝1分1敗という歴代最高の成績を収めた。監督は十分にいい評価を受けていいはずだが、そうはならず、故国へ帰ってしまった。その後、監督の知人を通じ、近況やニュースに接するだけだった。そして12年が過ぎた。今、会えたなら、その時の思い出に対し抱いている思いを晴らすことができるだろうか。良かったこと、悪かったこと、一生懸命やらず怒られたこと、、、心からヴィショベッツ監督に会いたいと思う。
原文:http://www.sportalkorea.com/news/korea/view.php?gisa_uniq=20080502174625
第2回に続く
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